残念論④
SNSは気楽で気さくな場だろう。誹謗中傷だの残念でならん。おっと、何を期待した?
顔が見えない方が良いというのは、ペットはしゃべらない方が良い、みたいな話で、想像の余地がある分、お互いが自由になれる、という理想がある。そして、それだけ。
皮肉を言うなら、”残念”の境地に立つための場に、なり得るということ。
物理を介さない繋がり、というのは、ある意味では、初めから”不可侵”だ。この距離感を冷静に見つめることは、健全な現実と、それなりの残念を感じる、イイ機会だったりする。
全く快適な、精神交換のやり方は、すでに、実現している…!
そろそろ、ホントに良い時代になるんじゃないか?
そんな理想を上から見下ろすのも、”残念”の残念な楽しみ方である。
残念論③
J.M.ケインズという、著名な経済学者がいた。彼は「行動の人」だという。
人を変えよう、世界を変えようと生きてきた人だ。『説得論集』という本もある。
彼は説得を試みる。しかし、理解されないこともある。そんなとき、彼はただ、「残念」に思ったという。全く遺憾のない、爽やかな「残念」だった。
諦めの境地は、感動や、人との繋がりとを絶たれた、虚無の意思ではない。
その極致に達することで、行き場を失くした期待のベクトルを、冷静に向け直すこともできる。
達人の域では、それでもなお、人を夢を、説得できるのだろう。
※ ケインズについて勝手ほざいているのは、ミロ・ケインズ編『ケインズ 人・学問・活動』(1978、東洋経済)を読んだ筆者の感想です。ご了承ください。
自作曲を配信しました。
本日より、各種ストリーミングサイトにて、オリジナルのオルゴール楽曲が配信されております。
5曲入り12分の、お手軽EPです。
Vintage Music Boxというオルゴール音源を使用しています。
耳馴染みの良い、優しいサウンドです。よろしければ是非、聞いてみて下さい!
残念論①
残念というのは、極めて高尚な感情である。
全く純粋に、”残念”と思えるなら。
心ならずも期待していた事に、裏切られるから、人は「残念だ」と思う。そんな怒りや蔑みもなく、ただひたすらに、”残念”に思えたら。
前向きにも後ろ向きにも、期待する気持ちというのは、拭い切れないものである。
他人や未知なるモノ・コトへのアプローチは、想像という名の期待から始まる。
自分の思った通りであること。自分と同じような考えを持っていること。全く茫洋としたモノを、人はそのままに扱えない。
例えば苦手な、嫌いな人に対してさえ、自分が持っている良識や常識で測ろうとしてしまう。まさかそんなことはないだろう。そしてまた、裏切られる。
残念な話である。